2012年11月

2012年11月14日

蔡振南インタビュー④ 日本は窓に鉄格子がなくて、非常に爽快

川瀬 日本に何度かこられましたか。
蔡 三年前になりますが、一度だけ行きました。
 京都で開かれた、『多桑』の映画祭のときです。
川瀬 日本の印象は。
蔡 窓に鉄柵がないのが、気持ちよかったですね。
川瀬 台湾へきたことのない日本人は、何のことか分からないかもしれませんね。台湾では、空き巣や泥棒が多い? というので、窓にガンジョウな鉄の柵をつけている。囚人でもないのに、一日中、鉄格子の中で暮らしている台湾の人から見ると、非常に気持ちがいいでしょう(笑)。
 その他には。
蔡 清潔ですね。それと樹木が美しかったのを思い出します。
川瀬 最後に、一つ聞きたいのは・・・・・・
蔡 普段は、酒は飲みません。レコードを吹き込むときなどに、少し飲むと感情が出るように思います。その時だけですね。飲むのは。


toyo2012sa at 15:36|Permalink台湾 

蔡振南インタビュー③『多桑』は日本精神

川瀬 『多桑』に出演して、感動したのは。
蔡 お父さんが、病院の窓から飛び降り自殺しますね。あの場面です。
 日本精神というか、男らしいというか・・・・・・。非常に感動しました。
川瀬 台湾の日本時代に教育を受けた人は、よく日本精神とか大和魂と言われます。蔡さんは若いですが。
 残念ながら、日本にはもうないですね(笑)。
 日本精神とか大和魂というと、日本人は軍国主義的な意味にとってしまう恐れがありますが、日本人の勤勉・実直・努力、そして勇気ある行動などを台湾の人は、日本精神と呼んでいるようですね。


toyo2012sa at 15:34|Permalink台湾 映画 

蔡振南インタビュー②初めての主役が、『多桑』

川瀬 『多桑』の主役の話は。
蔡 『多桑』の役は、呉念真から依頼してきました。
 彼のお父さんも嘉義の出身でした。当時私が付き合っていた彼女との関係が、呉念真の両親とよく似て、口げんかがたえなかったからです(笑)。
川瀬 以前に、呉念真に聞いたことがあるな。蔡さんが、その彼女と会うたびに、口げんかをしていて、私(呉)の両親とまったく同じなので、これはピッタシだとお父さん役を頼んだと(笑)。 
蔡 そう(笑)。
川瀬 どうでしたか。
蔡 この映画の主役をすることに、大きなプレッシャーがありましたね。私にとって、主役は初めてです。呉念真も監督としては、第一作目です。そのために、彼の今までの名声に傷を付けてはいけないと、非常に緊張しました。
川瀬 役として苦労したのは。
蔡 特に、お父さんが入院して、呼吸困難になるところですね。
 実際に病院に行って、呼吸困難な患者さんに接して・・・・・・。(話を中断して、実際に手で鼻をおおい、映画のようにジェスチャーをしながら) 
 脱脂綿に薬をしみ込ませて、それを鼻にあてて、非常に苦しかったですね。
川瀬 大変でしたね。
 たしか、金馬奨の最優秀主題歌賞を『多桑』でもらいましたね。
 


toyo2012sa at 15:32|Permalink台湾 俳優・監督 

蔡振南インタビュー①人間味ある歌手に

蔡 二十九歳の時、父親が亡くなる直前に、「自分の考えを持った人間味あるタレントになるならば・・・・・・」と、私が歌手になることを許してくれたのです。
 一九八二年、二十九歳の時に、台湾語の歌「心事誰人知」をつくりました。
川瀬 戒厳令が解除される五年ほど前ですね。「心事誰人知」、蔡さんが作詞・作曲。知らなかったな。この歌、私は大好きで、家にテープもあります。台湾語はわからないけど(笑)。
 シンスーナボコンツゥライ・・・・・・という歌詞でしたね。
蔡 古い歌なのに、よく知っていますね。
川瀬 話は変わりますが。初めて呉念真やに侯孝賢に会ったのは。
蔡 一九八八年です。以前から、この二人には、尊敬の念を持っていました。が、その彼らから、『悲情城市』の挿入歌、「悲情運命」を依頼されました。
川瀬 初めて彼らに会ったときの印象はどうでした。
蔡 実際あって見て、監督の侯孝賢は、武人の感がありましたね。シナリオライターの呉念真は、誠実さにあふれていた。
 この時以来、私は、この二人に音楽だけでなく、私事にわたっても相談するほど信頼しています。

toyo2012sa at 15:31|Permalink台湾 歌手 

蔡振南とは

蔡振南    台湾人の魂を演じうたう
 
   蔡振南は、作詞・作曲家・歌手、
   そして俳優として活躍している。
   心の底に秘めた情熱がチラリとのぞき、
   非常に爽やかで親近感のある男
 
 

 蔡振南は、一九五四年七月、嘉義に生まれる。四十三歳。
 一九九四年の金馬奨で、最優秀主題歌賞を獲得。台湾のレコード大賞で、作詞・作曲・歌手の三つの大賞を一度に取ったりしている。
 今は、作詞・作曲家・歌手、そして俳優として、幅広く活躍している。
 現在は、テレビで『流浪台語片』、毎日曜日夜十時から一時間。ラジオは、月曜から金曜までの毎日、朝十から十一時までの番組、『台湾香火』を担当。その他、音楽CDなどの製作に関わっている。
 心の底に秘めた情熱がチラリとのぞき、非常に爽やかで親近感のある男である。
なけなしの百五十元で、中古のギターを買う
川瀬 はじめに生年月日や出身地を教えてください。
蔡 一九五四年七月、台湾の嘉義で生まれました。農家の出身です。
川瀬 いつ、台北に出てきたのですか。
蔡 十三歳で国民小学校を卒業し、台北にでて働きました。子どもの頃の生活は、非常に苦しかった。自分なりには理想や目標を持っていたつもりですが、その時は五里霧中でした。
 職業は転々と変え、一八歳まで、まともに月給をもらった記憶がありませんね。
川瀬 呉念真や黄春明さんとおなじですね。彼らも数えられないぐらい、職業を変えています。いつ、蔡さんは音楽の道に入られたのですか。
蔡 十六歳の時に、ギターの曲を聞いて感動しました。これが自分のしたかったことだと思ったのです。
 なけなしの百五十元を出して、中古のギターを買ったのですが、先生に習うお金がない。何とか本を一冊買って、自分で練習しました。
 十八歳の時に、歌劇団と一緒に台湾全省を回って、歌をうたいました。
 はじめから台湾語の歌を練習しました。これは、国民党が北京語をすすめていたので、それに反発する気持ちもあって、台湾語でやっていました。
川瀬 家族は、蔡さんが歌手になるのに賛成していたのですか。
蔡 父親は、私が歌手になることを許してくれませんでした。父は保守的な人で、役者や歌手などは無情だと反対したのです。そのため、歌手の道を断念して兄の会社に勤めました。そして独立して、自分で会社をしていました。
 


toyo2012sa at 15:28|Permalink台湾 歌手